あの人、百足《むかで》だった。
靴が多すぎて、どの靴を履いて行ったのか……そもそも靴が減っているのかすら私には分からない。家の前の車庫に車あったっけ? そもそもシャッターはどうだったかな。
開いてた? 閉まってた?うー。思い出せないっ。
考えてみたら家の前に帰り着いた時点で真っ暗だったし、いつも以上に周りが見えていなくても不思議じゃない気がする。
今日 寛道《ひろみち》に、「お前は景色を見てるようで見てないんだよ」って言われたんだけど、そういう事なんだって今、思い知ってます。
もし頼綱《よりつな》のほうが先に帰宅していたら、きっと「どこに行ってたんだ?」って聞かれてしまう。あの人、今朝、今日は何時まで講義があるか聞いてきたし、問われたら絶対まずい。
ふと腕時計に視線を落とすと、20時を過ぎていて。
18時過ぎに大学が終わって、どんなにちんたらしたって19時までにここに帰りつけないなんてことがないことぐらい、私にだって分かる。どうかまだ戻ってきていませんように。
祈るような気持ちでそろりそろりと廊下を歩いて、自分に割り当てられた部屋を目指す。
あそこを曲がれば自室、ってところで「花々里《かがり》」と、仁王立ちしている頼綱に呼び止められた。
その声に、思わず「ひっ」と悲鳴が漏れる。
「おかえり。――随分のんびりとした帰宅だね。外、真っ暗だっただろう」
淡々と問いかけられて、私は頼綱から距離を取るように壁づたいにずりずりと背中を擦りながら自室に向けて横スライドする。
「あ、あのっ、ちょっとお母さんのところへお見舞いにっ」
帰りが遅かった理由としては妥当だし、堂々と言えば良いものを後ろめたさに後押しされて、私は頼綱の目を見られない。
すすす、っと視線を逸らすようにしながらそう言ったら、まるで遅く帰宅したことの言い訳にしか聞こえなくて、自分でも空々しいと思ってしまった。
私本人がそう感じているのだから、頼綱が思わないわけがない。
「そう
「僕の花々里《かがり》にこんな無粋な痕跡を残すとか……腹立たしいにも程があるね」 そのままアザに口付けられてゾクリと背筋が慄く。「あ、あの、頼綱《よりつな》……、私……」 これは素直に話した方がいいかも知れないって思って……ここから大学までのルートが覚えられなくて迷子になってしまいそうだった旨を話して。「そ、それでね、小さい頃から私が方向音痴なのを知ってた寛道《ひろみち》が心配して送り迎えしてくれたの……」 この手首の赤いのは私がモタモタしていて寛道を苛立たせてしまって引っ張られただけだと……一生懸命訴えてみる。 手首を握られた経緯については少し嘘を織り交ぜてしまったけれど……でもそこは伏せておかないと頼綱を余計に不機嫌にさせてしまいそうな気がして言えなかった。「頼綱は……お仕事あるし……迷惑掛けられないって思って。……ごめんなさい」 最後の〝ごめんなさい〟が効いたのか、頼綱が手を開放してくれてホッとする。「花々里。昨日俺と一緒に大学までの道のりを往復歩いたと思うんだけど。あれでも覚えられなかったということかい?」 ややしてポツンと頼綱にそう落とされて、私はソワソワと視線を泳がせる。 口調こそ「俺」に戻ってくれたけれど……その言葉を肯定するのが何となく憚られてしまう。 だって私、昨日は頼綱に無理言って車ではなく徒歩で道を教えてもらったのに。 それなのに目印にしていたものがことごとくダメなものだったって知ったら、寛道みたいに。いや労力を費やした分、下手したらそれ以上に……。 頼綱、呆れちゃうんじゃないかな。 それが、すごく怖くて。「もしや――1度歩いたぐらいじゃ、うまく
あの人、百足《むかで》だった。 靴が多すぎて、どの靴を履いて行ったのか……そもそも靴が減っているのかすら私には分からない。 家の前の車庫に車あったっけ? そもそもシャッターはどうだったかな。 開いてた? 閉まってた? うー。思い出せないっ。 考えてみたら家の前に帰り着いた時点で真っ暗だったし、いつも以上に周りが見えていなくても不思議じゃない気がする。 今日 寛道《ひろみち》に、「お前は景色を見てるようで見てないんだよ」って言われたんだけど、そういう事なんだって今、思い知ってます。 もし頼綱《よりつな》のほうが先に帰宅していたら、きっと「どこに行ってたんだ?」って聞かれてしまう。 あの人、今朝、今日は何時まで講義があるか聞いてきたし、問われたら絶対まずい。 ふと腕時計に視線を落とすと、20時を過ぎていて。 18時過ぎに大学が終わって、どんなにちんたらしたって19時までにここに帰りつけないなんてことがないことぐらい、私にだって分かる。 どうかまだ戻ってきていませんように。 祈るような気持ちでそろりそろりと廊下を歩いて、自分に割り当てられた部屋を目指す。 あそこを曲がれば自室、ってところで「花々里《かがり》」と、仁王立ちしている頼綱に呼び止められた。 その声に、思わず「ひっ」と悲鳴が漏れる。「おかえり。――随分のんびりとした帰宅だね。外、真っ暗だっただろう」 淡々と問いかけられて、私は頼綱から距離を取るように壁づたいにずりずりと背中を擦りながら自室に向けて横スライドする。「あ、あのっ、ちょっとお母さんのところへお見舞いにっ」 帰りが遅かった理由としては妥当だし、堂々と言えば良いものを後ろめたさに後押しされて、私は頼綱の目を見られない。 すすす、っと視線を逸らすようにしながらそう言ったら、まるで遅く帰宅したことの言い訳にしか聞こえなくて、自分でも空々しいと思ってしまった。 私本人がそう感じているのだから、頼綱が思わないわけがない。「そう
「ただいま戻りました」 お母さんと2人の家になら、「ただいまぁー」と間延びした声で帰宅するのだけれど、居候生活3日目の現状ではさすがにそれははばかられて。 これを、「気を遣っている」と見るか、「様子見しているだけ」と見るかは微妙なところなんだろうな。 予期せずお母さんに会ったことで、少し弱気になっている自分に気がついて、私はフルフルと首を振った。 病院でお母さんに即答したように、別に私、御神本家《みきもとけ》で肩身の狭い思いなんてしていないし、もちろん虐げられてもいない。 ばかりか、むしろとても大事にされているという気までするくらいで……ホント不満なんてないの。 何より食事が美味しいし、旬のものを必ず一品は取り入れるようにして料理を作る八千代さんの姿勢は、大いに見習いたいとも思う。 御神本家にいると、食事ってお腹が膨らめばいいってだけのものじゃないんだなって痛感するの。 そんな私が、ただひとつ困っていることがあるとすれば、頼綱《よりつな》とひとつ屋根の下で寝食をともにしているということ、かな――。 昨夜も嘘か冗談か、「今夜こそは」と同衾《どうきん》を迫る頼綱を部屋から追い出すのに苦労したし、多分今夜も。 小町ちゃんに「頼綱への気持ち」に気付かされてしまった今、それが逆にズシーンと重くのし掛かってくるようで。 好きな人から求められることが嫌だと感じる人はいないと思う。 私だって……本音言うとそう。 自分の気持ちに気づいてしまった今夜、私は頼綱を拒めないかも知れない。 それが、怖い。 ……私と頼綱は使用人と雇用主。 頼綱の私への執着は、もしかしたら学費を出して手に入れた私への品定めに近いところがあるんじゃないかしら?とも思ったりして。 そんな頼綱にもし気を許して、何もかもを見極められてしまった後、それでも彼が私に価値を見出してくれるのかな?って考えたら、イマイチ自信がないの。 そんな状態で入籍なんてして、戸籍上も彼のものになってしまったら……私、途端に価値を失ってし
ヤバイ……。 小町《こまち》に「手遅れかも」とか言われて……。 ついでに、以前書いたとかいう婚姻届がまだ保留にされているんだと知って……。 俺、つい焦って花々里《かがり》に「好きだ」とか言っちまった。 子供の頃からずっと花々里のことしか見ていなかったけど、花々里は父親を亡くしてからこっち、食いモンしか見てなかったし、それならそれで急がなくても少しずつ歩み寄っていけばいいかと思っていたのに。 それこそ俺が就職してから。 稼げる男になってから。 花々里に自力で美味いモン、たくさん食わしてやれるようになってから。 そうなれてから好きだと告げて、ただの「幼なじみ」から「1人の男」として意識してもらえたらいいと思ってたんだけどな。 子供の頃といい、最近といい、何だって花々里はすぐ俺じゃないヤツに餌付けされちまうんだ! 俺の餌付けが足りなさ過ぎたのは認める。 何つっても母親頼みだし……他力本願な時点で詰めが甘い。 うちには4つ年の離れた食い盛りの双子の弟達もいるし、どうあっても常におかずの奪り合いが起こる。 家だって、ごくごく平均的月収のサラリーマン親父と、パートタイマーの母親が支える、いわゆる庶民だし。 頼綱《よりつな》みたいに、いつでも高級なモンを食わしてやるとか現状では絶対に無理だ。 けど――。 負けたくないって思っちまったんだからしゃーねぇじゃん? 好きだって暴露してしまったのも取り消
「どっ、どこに向かってる……の?」 恐る恐る問いかけたら「病院」って言われて。 それはどこの病院なんだろう?と、私の中に更なる疑問を呼び起こすの。 「頼綱《よりつな》の、……トコ?」 何となく頼綱の顔が浮かんでそう言ったら、無言で睨まれて。 それは肯定なの? 否定なの? どっち? *** 「急に押しかけてすみません」 寛道の声に、私は彼に手をギュッと握られたままビクッと身体を跳ねさせる。 「あら、いいのよ。寛道《ひろみち》くんならいつ来てくれても大歓迎」 ニコッと笑ったお母さんを見て、私はソワソワしてしまう。 病院って……こっちだったの? なんで……お母さんの、所? 「花々里《かがり》、どうしたの? 今日はやけにおとなしいじゃない」 言われて、「あ、うんっ、お、お腹空いてて」と意味不明な返しをしてしまってから、こんなんじゃお母さんに心配かけちゃうじゃんって思って。 「ね、花々里ちゃん、御神本《みきもと》さんのところでは可愛がってもらってる? 辛い思いしてない? お母さん、もうちょっとで退院できるから……そうしたらまた2人で暮らすことも視野に入れて色々考えようね」 言われて、「だっ、大丈夫! すっごく可愛がってもらってるし、私、今のままでも全然問題ないよ」って答えたら、瞬間手首を握る寛道の力が強くなった。 いっ、痛いってば。 眉をしかめて、寛道の手を振り解こうと、腕を自分の方に引きながら寛道を睨んだら、
「意味わかんないよ?」 キョトンとして寛道《ひろみち》を見詰めたら、「お前のこと好きだっつってんの! 分かれよ」って怒られた。 そ、そんなのっ、唐突すぎて分かりっこない! *** そもそも寛道は小町《こまち》ちゃんが好きなんだから、私への「好き」は恋愛絡みの「好き」ではないはず。 きっと小町ちゃんに振られちゃったからご乱心なのね? ということは、きっとこの好きって――。 「……えっと……それは……私がかぼちゃの煮物が好き、とかいうのと同じ〝好き〟だよね?」 そうなんだと思う、きっと。 こう、小さい頃から慣れ親しんでるから、見掛けたらホッとする感じの。 それ、奪われると思ったから焦ってるのね? もぉ、可愛いところあるんだからっ。 そう思いながら「だよね?」のところで小首を傾げたら、寛道が息を呑んだ。 えっと……。 否定しないってことは……肯定でOK? だとしたら――。 「私も寛道のこと、嫌いじゃないよ?」 寛道、何だかんだ言って、小さい頃から可愛がってくれるし、たまにだけどこんな風におばさんの手料理をお裾分けもしてくれる。 何より私が困っていたら憎まれ口を叩きながらも今日みたいに助けてくれるでしょ? だから、嫌いじゃない。 あえて「好きだよ」とは言わずに「嫌いじゃないよ」って言い方をしたのは何となくで深い意味はない。……